「期待」と「信頼」

まだ学生の頃だったと思いますが、先輩に「期待と信頼は違う、期待はせずに信頼しろ」と言われたことがあります。以来、この言葉は私の中にずっと残っていて、大事な指針の一つとなっています。

何が期待で、何が信頼なのだろう、と考えることがあります。たとえば、「この人は悪いことはしないだろう」とか、「この人は約束を破ったりしないだろう」というのは、期待でしょうか、信頼でしょうか。普通は、「私はあなたを信頼している」というのは、その人が悪いことをしたり約束を破ったりしない人だと思っている、ということを意味しているようにも思います。しかし、人は誰でも魔が差したり、道を踏み外したりしうるものだとも思います。そういった時に、私たちはもうその人を「信頼」できないのでしょうか。考えようによってはそれは、「この人はきっとこういう人でいてくれるだろう」という、こちら側の「期待」に根ざした考えかもしれないとも思うのです。

私の意見としては、その人の中のどこかに、自分の行いや人生を真摯に考えようとする気持ちがあること、なんとか「自分自身であろう」と奮闘しているその人がいることを、信じられるかどうかということが大事なのではないかと思います。そういうものは、今は隠れていて、表には見えないかもしれません。そしてその人のその「自分」は、私の側で考える正しさとは異なるものを正しいと考えるかもしれません。その意味では私は、私が「正しい」と思うような振る舞いをその人がするだろうと「期待」はできません。しかし、きっとその人なりに「自分」として考えて、自分なりに一生懸命に生きようとしている「その人」がどこかにいるということは、信頼できたらいいなあと思うのです。

なんにしても、人を「信頼する」というのは難しいことだなあと思います。おそらく、私たちは気がつくといつの間にか人に期待はしているものですが、人を信頼するにはなんらかの意志が必要になるのでしょう。

人に「ちょっとがっかり」してもらう

対人関係に苦労している人や、うつ状態からなかなか抜け出せない人の中には、とても真面目で、まわりからは「信頼できる人」と評価されている人も多いように思います。その信頼に答えてしっかりやろうとするあまり、適度に力を抜くことができず、しんどくなってしまうのですね。カウンセラーからは、「適当さ」を身につけること、がんばりすぎないでやれるペースを保つことを勧めることがありますが、このことが、苦手な人にとってはとても難しいように思います。

私がひとつのポイントだと思っているのは、まわりの人に「ちょっとがっかり」してもらうこと、です。もう少し正確に言えば、まわりの人に「ちょっとがっかり」されたとしても、それを受け入れようと決めることです。まわりの人にがっかりされることは、まわりの期待に真面目に応えようとしている人にとってはちょっと怖いことであろうかと思います。しかし、まわりの人があなたに期待しているものが、あなたがしんどくなるほどのものなのだとすれば、あなたが「そこまではできないよ、無理だよ」と言って、まわりの人に「ああ、そこまではできないのね」と思ってもらうことは必要なことです。

「がっかりされる」と言っても、まわりの人が本当にがっかりするわけではないことも多いように思います。むしろ、自分の内にある「相手にがっかりされたくない」気持ちと折り合いをつけるというところが大事なポイントです。まわりの期待に応えようとして一人相撲になってしまうということは少なくありません。実際には、少し余裕を持って物事に取り組むことができれば、その方が自分らしさを生き生きと発揮することにつながることも多いのではないかと思うのです。

「わかってしまわない」能力

「心理士です」とか「カウンセラーをしています」という話をすると、時々「じゃあ、こうして話していると、心を読まれちゃうかな?」と言われることがあります。もちろん相手の人は冗談で言っているのですが、でも案外、心理士のイメージというのはそういう感じなのかもしれません。実際には、全然そんなことはないのですが。テレビで、メンタリストというのでしょうか、相手が何を考えているかが手にとるようにわかる人を見たことがありますが、私は残念ながらそんな器用なことはできません。

「残念ながら」と書きましたが、実は、そんなに残念なわけでもないのです。私は、心理カウンセラーの専門性は相手の心がたちどころにわかるというところにはないように思っているからです。むしろ大事なのは、相手の心を「わかってしまわない」能力であり、「人の心はそうそうわかるものではない」ということがわかっていることであるような気がしています。

キーツという詩人が、「ネガティブ・ケイパビリティ」、つまり「負の能力」というものについて書いています。これは、不確実さに耐える能力のことを指します。私たちは早く結論や解決策を導き出すことを重視しすぎて、不確実さに耐える能力をすり減らしているところがあるのかもしれません。確かに、ビジネスのことであれば、早く効率的に物事を決めて先に進めるのが望ましいのかもしれません。しかし心に関わることがらでは、あるいは人生に関わるようなことがらでは、これはこうだと安易にわかってしまうのではなく、しばらくのあいだ気持ちを抱えていたり、じっくりと自分に向きあったり、さまざまな見方や物事の諸側面をあれこれ考えてみたりすることが大事になってきます。

私たちは、「わかった」と思ってしまうと、もうそれ以上そのことをわかろうとはしなくなってしまうところがあります。実際には、何かを本当に全部わかってしまうことなどないのかもしれません。人の心や自分自身の心にいたってはなおさらです。私たちは自分が相手のことを全部はわかっていないと承知しているからこそ、相手の言葉に表面的にではなく豊かに耳を傾けることができ、また自分自身のことを全部はわかっていないと知っているからこそ、自分自身に関心を持ってまなざしをむけることができるのではないか、と思います。

変化のパラドックス

カウンセラーの仕事で難しいなと思うことの一つに、こんなことがあります。相談に来られる方はだいたい、状況を変えたい、自分を変えたいと思って来られます。ですからカウンセラーである私は、相談に来られた方から「どうやったら変えられますか」と問われるわけですね。しかし、私が「じゃあ、変えましょう」と言ってその人を変える方向にあまり積極的に乗り出しはじめると、逆になかなか根本的なところは変わりがたくなってしまうことが多いように思います。もちろん、できるところを少しずつ、地道に変えていくことで、ある程度のところまで生活を変えていくことはできます。しかし自分の心そのものが変化する時は、逆に、今の自分自身を受け入れることができた時であることが多いように思います。ですから私は、「変わりたくて」相談に来られた人に、一方では今の自分を「受け入れる」ためのサポートをすることになります。

「受け入れる」というのは正確ではないかもしれません。「今の自分を受け入れる」というと、今の自分で満足せよ、というふうにも聞こえるからです。今の自分で満足しなさい、変わらなくてもそれでよしとしなさい、というのでは、カウンセリングに行く意味などなくなってしまいますよね。私が言いたいのは、なんと言いますか、「今の自分と仲直りする」「これまでの自分と仲直りする」というようなこと、変化はそれによって生じる部分が大きいということなのです。「こういうふうに変わりたい、でも変われない」という時に、この「変われない」というところにある気持ちや思いに(相談に来られた方とカウンセラーとが一緒に)優しく耳を傾けていくこと、その「変われない」自分と仲直りすることで、はじめてその「変われなかった」ものが先へと進んでいく余地が自分の中に生まれます。

カール・ロジャーズという人は、「奇妙な逆説だが、自分をありのままに受け入れた時に私は変化する」と述べています。変化や成長の種は、自分の外側の世界で出会われることもありますが、自分の内側の、意外なところで見出されることも多いように思います。

過去を振り返ることの意味

カウンセリングでどんな作業をするか、どんな話をするかは、来談される方のニーズや困りごとによってさまざまです。まずはご自分の「気持ち」について十分に話をすることが必要な方もいらっしゃいますし、ご自分の「考え方」や「物の見方」が妥当なのかどうかを話し合いたいという方もいらっしゃいますし、現状の中でどう「行動」すればいいかを考えたいという方もいらっしゃいます。カウンセリングでは、そういったニーズや問題意識をうかがって、それに応じて面接をおこなうことになります。ただ、カウンセラーによって得意な方法や重視する点が異なることも確かです。私はどちらかというと、気持ちや思いを重視するカウンセラーだろうと思います。私は、その人がどう考えるか(どう物事を見るか)、どう行動するかということの背景には、その人がどんな気持ちや思いを抱えて生きてきたのかということがあり、その気持ちや思いに自分自身が耳を傾けていくことが、自分自身の考え方や行動について深く考えていくことにもつながると思っているのです。

もちろん、あまり気持ちや思いというところまで話を掘り下げることはせず、目の前のことにどう対処できればいいかというところを整理して、それでカウンセリングを終えられる方もいらっしゃいます。それはそれで、もちろんいいのです。必ずしも深く自分の思いに向きあっていくのがいいこととは限りません。ただ、話をしていく中で、これまで自分自身でもどこかでわかっていながら目を向けてこなかったような気持ちがとても重要なものだということが明らかになっていくことも少なくありません。そのような流れになる場合には、話はおのずと、いったんは過去にさかのぼることが多いように思います。

自分自身のことを考えるという時、過去のことはとても大きな意味を持っています。カウンセラーは継続してお話をうかがう場合、一度、来談された方がこれまでの人生をどのようにやってこられたかをお訊きすることがよくあります。その歴史を知っていることが、今のその人のありようを理解する上で重要な背景となるからです。「今」を大事にするために、過去のことが重要な意味を持つわけですね。ただ、来談される方の中には、カウンセリングはただ「過去を振り返る」ものだと考えている方や、過去はもう変えられないのだから振り返っても仕方がない、だから過去のことを話しても意味がない、と思われている方もいらっしゃいます。実際には過去を振り返ることは、「今」の自分が変化することの一つの道筋として、重要なのです。しかし、過去を振り返ることが、なぜ今の自分が変化することにつながるのでしょうか。この問いに対する答えはいろいろありうるでしょうが、一つの答え方として、自分自身の中でなにか引っかかっているような過去の気持ちや思いは、今でも自分の中に「生きて」いて、命を持っているから、と答えることができるかと思います。

過去を振り返ることは、自分自身のこれまでの歩みにダメ出しをすることではありません。また、思い出したくない事柄に自分自身をもう一度さらすことが目的なのでもありません。言うなれば、今も自分の中に生きている「昔の自分」に声をかけ、耳を傾けて、ケアすること、そばに寄り添ってあげることが大事なのだろうと私は考えています。そうすることで、自分自身の中で止まっていたプロセスが、今、進むべき方向に進み始めるのではないかと思うのです。

「公認心理師技法ガイド」に分担執筆しました

「公認心理師技法ガイド」の「フォーカシング」の項を、日笠摩子先生と共同で執筆しました。ご興味のある方はぜひ。

求めること、求められること

人と人との関係というのは、本来、相互的なものなのだろうと思います。自分が相手に何かを(たとえばつながりを)求めることと、相手が自分に何かを求めることとが、呼応してといいますか、バランスをとって、人と人との関係は成り立っています。しかし、自分から求めるということと相手から求められるということのバランスをとるのが苦手な人もいます。たとえば、相手から求められることに応じることはできるけれど、自分から本当に何かを(たとえば自分を理解してもらうことを)求めることができなかったり。そうすると、まわりからは受け入れられているのに、本人は「自分」を見つけてもらえないという思いをどこかで抱えているということになるかもしれません。あるいは、相手に何らかのつながりを求めているのだけれど、相手の方から自分とつながりを求める気持ちを表明されてしまうと、その人との間で、自分自身のニーズを持った自然な「自分」でいられなくなってしまったり。あるいはまた、相手の求めるものを大事にしなければという気持ちにとらわれて、自分から相手に何かを求めることに罪悪感を抱いたり。

ニュースなどで、結婚に積極的でない人のことが時々話題になることがありますが、ひょっとしたら現代人は、求め、求められる、という相互的な関係が不得手になっているのかもしれません。このことは、地域社会のつながりが希薄になっている、ということとも関係がありそうです。本来相互的に助け合うような社会の仕組みに対して、自分に何かを要求してくるものと感じて距離を置き(あるいはそれが自分にトクかどうか、つまり何を与えてくれるのかという視点から判断し)、一方では、相手に何かを与えるという自分の役割がはっきりしているボランティアには抵抗がなかったりもします。

今、「日本心理臨床学会」という学会の会期中なのですが、その学会で、セラピスト(カウンセラー)の側の相手とつながろうとする欲求の話が出ていて、興味深く聞きました。カウンセリングは、来談者のための場であるという前提がはっきりしている場所で、このことはおそらく現代の社会の中で意味のあることなのだろうと思います。フロイトという人は、セラピストは中立的な立場でいるべきだ、つまり自分の気持ちを持ち込むことなくカウンセリングの場に臨むべきだというようなことを言いました。現代ではどちらかというと、自分の気持ちを持ち込まない客観的でクールなセラピスト像というのは幻想で、カウンセラーは好むか好まざるかに関わらず、一人の人間としてカウンセリングの場に身を置かざるをえない(そしてそのことには意義がある)、と考えられているのではないかと思います。ただ、「来談者の役に立ちたい」「なんとかしてあげたい」というようなカウンセラーの気持ち(欲求)があまりに大きくなることは、あまりいいことではない場合があります。それは来談者にとっては重荷になることがあるからです。求めることと求められることのバランスをとることが難しい人が、ここはカウンセラーが「こうしよう」「こうするべきだ」と思うことを実現するための場ではないよ、あなた自身のための場だよ、あなたの内にある思いを大事にするためにこの時間を使うのは正当なことなんだよ、ということをちゃんと納得できる関係性がそこにあることは、とても大切なことであるように思うのです。

NVCの考え方

ノンバイオレント・コミュニケーション(NVC)というものがあります。これは、何と言うのでしょう、カウンセリングの技法でもないし、人の心に関する理論というのも少し違うような…。人とコミュニケーションをとる時に、こんなふうにコミュニケーションをできるといいよね、という、ひとつのコミュニケーションの取り方ですね。NVCの創始者であるローゼンバーグという人は、ロジャーズのお弟子さんだった人のようです(ロジャーズというのは、私が大事にしているパーソン・センタード・アプローチという考え方の創始者です)。

NVCではコミュニケーションを、観察、感情、ニーズ、リクエストという4つのポイントで見ていきます。たとえば誰か他の人の振る舞いをみる時に、その人がどんな状況でどんな行動をしているのか(観察)、どんな気持ちでいるのか(感情)、その人は何を求めていたり何を必要としていてそんな気持ちになっているのか(ニーズ)、という観点から見てみます。私たちは相手がどんな気持ちかということは気にしていることが多いと思いますが、その背景にその人のどんなニーズがあるのかということには目をあまり向けていないように思います。しかしニーズに目を向けてみると、少し相手に優しくなれるような気がします。怒っている人がいるとして、「その人は何を必要としているのだろう、自分を尊重してもらうことなのか、みんながルールを守ることなのか…」と考えてみると、その人の気持ちがもう一歩わかるような気がするのです。

自分自身の気持ちについてもNVCでは、観察と感情とニーズを分けて伝えることを勧めます。相手の振る舞いを見て、「勝手なことしないでよ!」とただ怒るのではなく、その人がしているどんなことに接して(観察)、自分としてはどんな気持ちになるのか(感情)、そして自分としては何を必要としているのか(ニーズ)を分けて伝えるわけです。「あなたが部屋を片付けないでいると、自分としては居心地が悪いし、苛々した気持ちになる。私は、完璧にではなくてもいいけれど、部屋がある程度片付いていて、通路が歩ける状態になっていたり、テーブルの上が使える状態になっていてほしいと思っている」というように。そして、(命令ではなく)リクエスト、つまり具体的な要望を伝えるわけです。「だから、この部屋から離れる時には、出したものを片付けてほしいのだけれど」。ポイントは、相手のことを「あなたは…だ!」と断罪するのではなく、あくまで自分自身の気持ちやニーズとして伝えるというところにあるのだと思います。

NVCについては日本語訳の本も出ています。興味のある方はチェックしてみてください。

認知行動療法とブリーフセラピーについて

カウンセリングの世界では、現在、認知行動療法と呼ばれるやり方がかなり勢いを持っています。認知行動療法は効果の実証研究が進んでいること、仕組みがわかりやすく納得しやすいことが、その理由の一部であろうと思います。私は認知行動療法を専門にはしていないので、いろいろと地味に反論(といいますかそれ以外の方法の弁護)をしたくもなりますが…でも、認知行動療法的な考え方やアプローチが、カウンセリングの中である範囲で役に立つことは確かです。そして、そのようなアプローチが必要となるような問題や、そのようなアプローチが合っているクライアント(来談者)さんがいらっしゃることも確かです。

私は認知行動療法は専門にしていないと書きましたが、認知行動療法的な視点からのアプローチ(認知的なアプローチや、行動的なアプローチ)もしないわけではありません。ただ、私は、いわゆる「認知行動療法」という名のもとにそういったアプローチを導入するよりも、対話の中にそのような視点が自然に織り合わされていく方が好みです。そして対話の中に認知的・行動的なアプローチが織り合わせていく上では、「認知行動療法」と考えるよりも、ブリーフセラピーという方法、中でも解決志向アプローチと呼ばれる考えの枠組みで考えていく方が、自分にとっては自然にできるように感じています。私の感覚では、解決志向アプローチは認知行動療法と共通した部分を持ちながらも、より柔軟で、軽やかさのある方法のような気がしています。

いや、柔軟であるかどうかは、アプローチの種類ではなく、カウンセラーによるのかもしれませんね。柔軟な認知行動療法家は、きっとたくさんいると思います。認知行動療法ではなく他のアプローチを推したくなるのは、「売れている」認知行動療法に対して私の中に少しやっかみがあるのかもしれません。

認知行動療法やブリーフセラピーは、どちらかというと「先に進めようとする」アプローチなのだと思います。私が大事にしたいと思っているのは、「ちゃんととどまって、今の自分に(穏やかに)向きあう(それによって自ずと先に進んでいく)」やり方です。そういうやり方は、あんまり流行らないのかもしれないけれど(…やっぱり、やっかんでいるかな)。

4月からのセッション可能日

4月から、セッションが可能な曜日が変更になります。今は水曜日と金曜日にセッションをおこなっていますが、4月からは金曜日と土曜日になる予定です。土曜日に関しては、継続してのセッションは午前中のみとさせていただくかもしれません。

(2019年4月6日追記)継続してのセッション(面接)が可能なのは、水曜日の午後、金曜日の午前、土曜日の午前となりました。フォーカシングの個別セッションなど、1回のみのセッションは、もう少し柔軟に対応できる可能性があります。