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ご挨拶おくれました―オフィスを閉室しました

みなさま、あけましておめでとうございます。

すでにトップページでお伝えしていますが、昨年9月に、井の頭のオフィスを閉じました。とても残念ですが、コロナウイルスの感染拡大の影響もあり、部屋を維持するのが難しくなってしまいました。

いずれどこかでオフィスを再開するかどうかはまだ未定ですので、基本的には「再開しない」という前提で考えていただいた方がいいだろうと思っています。そのため、再開したらその旨ご連絡するというようなことは一切しないことにいたしました。

この状況下、みなさんそれぞれにそれぞれの生活があるかと思いますが、なんとか乗り切れればと願っています。

日常が変わるということ

コロナウイルスの影響の中で、多くの人の日常生活は、これまでと大きく変化しているものと思います。新聞などを見ていると、コロナ後の世界はコロナ前とは別のものになるのだとか、そういった言葉が目に入ってくることがあります。こういうことがあると、この先自分の生きている世界がどうなっていくのか見通しが立たないことに、不安を感じます。もちろん人間には先のことなどわからないに決まっているのですが、日常生活を送っていると、この先も同じようにこの生活が続いていくという感覚を、いつの間にかなんとなく持ってしまうところがありますね。それは退屈なようでもありますが、きっと安心を与えてくれている感覚でもあるのでしょう。

考えてみると、9年前の2011年には東日本大震災があって、やはり日本に住む私たちの日常は大きく揺り動かされました。原発のこともあって、やはり震災後は震災前とは私たちが日常を生きる世界は変化してしまったように思います。2001年にはアメリカの同時多発テロ事件があり、テレビで貿易センタービルに飛行機が衝突する映像を見て、世界はどうなってしまうんだろうと思ったものでした。1995年には阪神・淡路大震災が、1990年代の初めにはバブルの崩壊がありました。もちろんそれ以外にも、熊本や北海道や新潟の地震、各地の水害と、日常が揺るがされるような事件は定期的に起こっています。

今の生活がずっと変わらずに続いていくということは、実際にはありえません。そもそも人は歳を取りますし、親が歳を取ったり、子どもが大きくなったりというふうに、環境も少しずつ確実に変わっていきます。日常というのは、仮の安定状態をしばらく保ちながら、ゆっくりと、あるいは時々なにかのきっかけで急激にシフトして、また別の形の安定状態に入っていくものなのかもしれません。それはその時には、喪失感とか、あるいはこれまでの世界が終わってしまうような感覚を抱かせるものかもしれません。でも、また「別の」「変わらない日常」が、やがてやってきます。

変化は不安を生みますが、今の生活の中で、ひとつひとつの問題に対処し、ひとつひとつの時間を丁寧に過ごしていくことが大事なのかな、と私自身は思っています。それをしていれば、私たちの生命は新しい日常をちゃんと作り上げて、その中にちゃんと根を下ろしていくように思うのです。

面接を原則停止しています

みなさま、大変な状況が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。

久羽心理カウンセリングオフィスでは、コロナウイルスの感染拡大の防止のため、現在、面接を原則停止しています。感染症というのは、直接に顔をあわせて思いを共有するという機会を制限し、一歩ずつ前進をしていくことも難しい状況を作り出すという点で、悩ましいものだなあと感じています。

ブログはだいぶ長いこと更新していませんでしたので、この機会に少し何か書けたらとは思っています。

あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

この年末年始に、書かなければと思っていた文章をせっせと書いています。これも仕事の一部と言えば仕事の一部で、年末年始にまで家で仕事をしているのかと思うとなんだかブラックな働き方をしているような感じがしてきますが、何かを書く作業は実はわりと好きでやっているところがあります。

文章を書く作業を年末年始にまとめてやらないといけないほど忙しいのかと言えば、そんなこともないような気がするのですが、私は少しまとまった時間ができないとなかなか書く作業に取りかかれないところがあります。何かを考えて文章にするという作業には、細切れの時間で細切れにやるというのではやれないものが含まれているからかなと思います。いろんな雑務をいったんちゃんと脇にどけて、少しゆったりと何か一つのことに取り組めるようなスペースが日常の中にできて、それでようやく、何かをちゃんと考えたり、自分としての表現を練り始めたりすることができるように感じています。やっつけで書く文章はあまり面白くはありませんしね。

これは、このブログをなかなか更新できない言い訳でもあります。ちょっとしたスキマ時間に思ったことをちょっと書けばいいのでしょうけど、なかなかそれでは、自分が本当に感じていること、本当に思ったことを言葉にはできないな、という気がして…でも今回の文章はわりとスキマ時間に書いているかもしれません。しばらく更新していませんでしたからね。ご容赦ください。

何はともあれ、この一年が、皆さんにとっても私自身にとっても、いい一年になりますように ― 自分らしくいられる一年、やっつけで何かを進めるだけでなく大事な何かのためにしっかり「今」にとどまれる一年となりますように。

歩くのが好きです

歩くのがわりと好きです。歩くのは気持ちがいいし、そして個人的には、歩くことには心身のバランスを整える作用があるのではないか、と(あくまで個人的に)思っています。

ただし私の場合、気持ちよく歩けるためにはいくつか条件があります。一つは、荷物があんまり重くなく、そして左右のバランスが取れていて手が空いていること(やっぱりリュックがいいですね)。一つは、あまり人が多かったり道が狭かったりせず、自分の身体が自然にゆったりとした横幅を保てること(肩すぼみでないリラックスした姿勢が取れるように)。そして、急ぐ必要がないこと、です。

そして、自分の身体が欲する、自分の身体にとって自然なペースで歩きます。私の場合はですが、この自然なペースは、多くの場合、意外とゆっくりです。普段はきっと、できるだけ早く目的地にたどり着こうとして、けっこうせわしない気持ちで歩いているのでしょう。普段より相当ゆっくり歩いてみてはじめて、自分の身体が気持ちいいと感じられるようなペースが見つかることが多いのです。

もう一つ大事だと思うのは、目的地までの距離を意識せず、一歩一歩を大事にしながら歩くことです。急いでいる時は、目的地に早く着くことばかり考えて、前へ前へと歩みを進めようとしてしまいますが、そういう時は一歩一歩の歩みは、早く済ませてしまった方がいいもの、やりたくないのにやらなければならないものになってしまいます。身体を急かして追い立てると、歩くことは身体に無理なバランスを強いることになりかねません。でも身体のペースを大事にしながら、前へ前へと急ぐのではなく、一歩一歩を大事に歩くことができると、歩くことがちょっと楽しくなってきます。そしてそんなふうに自分のペースを楽しめている時には、自分が少しずつ、自分本来のバランスを取り戻していっているような感じがするのです。

時間の流れと「今ここ」

前の投稿から、1ヶ月以上がたってしまいました。あっという間に8月が終わり、そして9月に入ってもう一週間…時間があまりにはやく経ってしまうので、本当に驚いてしまいます。ついこの間、今年になったように思うのですけれど。

歳を取るほど時間が経つのをはやく感じる、というのは心理学では時々話題になる現象ですね。なぜ歳を取るほど時間が経つのがはやくなるのかの説明も、いくつか聞いた気がします(たとえば歳を取ると、新鮮で目新しいものがなくなるから、とか…)。それが本当なのかどうかはよくわかりませんが。

時間がはやく経つということについて、私はこんなふうに考えることがあります。人が、時間がこんなにはやく経ってしまった、と思う時、その人は別に、目の前を通り過ぎる時間を観察して、ああ、はやく通り過ぎているなあ、と思うわけではありません。「時間がこんなにはやく経ってしまった」と思う時、私たちは過去のある時点を思い返して、その時と今とのへだたりを測っているのです。つまり、時間がこんなにはやく経ってしまったなあ、と思っている時、私は「今ここ」での時間を生きていないのです。

マインドフルネスの考え方を学んだり、禅に興味を持っていたりすると、あの時がこうだったとかこれから先がどうだとか言う前に、今この瞬間をしっかりと生きられたらいいのになあ、と思います。今年の1月がどれほど「つい最近」に思われようとも、9月のこの1日を、大事に生きる。40代前半がどれほどあっという間に過ぎ去ってしまったように思われても、45歳の今日を今日として生きる。そう思い直して、しっかりと「今」に立って感じてみると、今この瞬間の時間は、ちゃんと、ゆったりした流れで流れているようです。

「期待」と「信頼」

まだ学生の頃だったと思いますが、先輩に「期待と信頼は違う、期待はせずに信頼しろ」と言われたことがあります。以来、この言葉は私の中にずっと残っていて、大事な指針の一つとなっています。

何が期待で、何が信頼なのだろう、と考えることがあります。たとえば、「この人は悪いことはしないだろう」とか、「この人は約束を破ったりしないだろう」というのは、期待でしょうか、信頼でしょうか。普通は、「私はあなたを信頼している」というのは、その人が悪いことをしたり約束を破ったりしない人だと信じている、ということを意味しているようにも思います。しかし一方で、人は誰でも魔が差したり、道を踏み外したりしうるものだとも思います。もしそういうことが起こったら、私たちはもうその人を「信頼」できないのでしょうか。でも考えようによっては、それは「この人はきっとこういう人でいてくれるだろう」という「期待」に過ぎないのではないか、とも思うのです。

私は、こんなふうに考えてみることがあります。信頼するというのは、その人が実際に何をするか、ということとは少し違う次元の事柄ではないだろうか。つまり、その人の中のどこかに、自分の行いや人生を真摯に考えようとする気持ちがあるとか、なんとか「自分自身であろう」と奮闘しているその人がいるとか、そういうことを信じるということが、信頼ということではないだろうか。

その人のそういう部分は、今は隠れていて、表には見えないかもしれません。それにその人のその部分は、私の側で考える正しさとは異なるものを正しいと考えるかもしれません。その意味では私は、私が「正しい」と思うような振る舞いをその人がするだろうと「期待」はできません。しかし、その人なりに「自分」として考えて、自分なりに一生懸命に生きようとしている「その人」がきっとどこかにいるということは、信頼できたらいいなあと思うのです。

なんにしても、人を「信頼する」というのは難しいことだなあと思います。おそらく、私たちは気がつくといつの間にか人に期待はしているものですが、人を信頼するにはきっと、信頼しよう、という意志が必要になるのでしょう。

NVCの考え方

ノンバイオレント・コミュニケーション(NVC)というものがあります。これは、何と言うのでしょう、カウンセリングの技法でもないし、人の心に関する理論というのも少し違うような…。人とコミュニケーションをとる時に、こんなふうにコミュニケーションをできるといいよね、という、ひとつのコミュニケーションの取り方ですね。NVCの創始者であるローゼンバーグという人は、ロジャーズのお弟子さんだった人のようです(ロジャーズというのは、私が大事にしているパーソン・センタード・アプローチという考え方の創始者です)。

NVCではコミュニケーションを、観察、感情、ニーズ、リクエストという4つのポイントで見ていきます。たとえば誰か他の人の振る舞いをみる時に、その人がどんな状況でどんな行動をしているのか(観察)、どんな気持ちでいるのか(感情)、その人は何を求めていたり何を必要としていてそんな気持ちになっているのか(ニーズ)、という観点から見てみます。私たちは相手がどんな気持ちかということは気にしていることが多いと思いますが、その背景にその人のどんなニーズがあるのかということには目をあまり向けていないように思います。しかしニーズに目を向けてみると、少し相手に優しくなれるような気がします。怒っている人がいるとして、「その人は何を必要としているのだろう、自分を尊重してもらうことなのか、みんながルールを守ることなのか…」と考えてみると、その人の気持ちがもう一歩わかるような気がするのです。

自分自身の気持ちについてもNVCでは、観察と感情とニーズを分けて伝えることを勧めます。相手の振る舞いを見て、「勝手なことしないでよ!」とただ怒るのではなく、その人がしているどんなことに接して(観察)、自分としてはどんな気持ちになるのか(感情)、そして自分としては何を必要としているのか(ニーズ)を分けて伝えるわけです。「あなたが部屋を片付けないでいると、自分としては居心地が悪いし、苛々した気持ちになる。私は、完璧にではなくてもいいけれど、部屋がある程度片付いていて、通路が歩ける状態になっていたり、テーブルの上が使える状態になっていてほしいと思っている」というように。そして、(命令ではなく)リクエスト、つまり具体的な要望を伝えるわけです。「だから、この部屋から離れる時には、出したものを片付けてほしいのだけれど」。ポイントは、相手のことを「あなたは…だ!」と断罪するのではなく、あくまで自分自身の気持ちやニーズとして伝えるというところにあるのだと思います。

NVCについては日本語訳の本も出ています。興味のある方はチェックしてみてください。

認知行動療法とブリーフセラピーについて

カウンセリングの世界では、現在、認知行動療法と呼ばれるやり方がかなり勢いを持っています。認知行動療法は効果の実証研究が進んでいること、仕組みがわかりやすく納得しやすいことが、その理由の一部であろうと思います。私は認知行動療法を専門にはしていないので、いろいろと地味に反論(といいますかそれ以外の方法の弁護)をしたくもなりますが…でも、認知行動療法的な考え方やアプローチが、カウンセリングの中である範囲で役に立つことは確かです。そして、そのようなアプローチが必要となるような問題や、そのようなアプローチが合っているクライアント(来談者)さんがいらっしゃることも確かです。

私は認知行動療法は専門にしていないと書きましたが、認知行動療法的な視点からのアプローチ(認知的なアプローチや、行動的なアプローチ)もしないわけではありません。ただ、私は、いわゆる「認知行動療法」という名のもとにそういったアプローチを導入するよりも、対話の中にそのような視点が自然に織り合わされていく方が好みです。そして対話の中に認知的・行動的なアプローチが織り合わせていく上では、「認知行動療法」と考えるよりも、ブリーフセラピーという方法、中でも解決志向アプローチと呼ばれる考えの枠組みで考えていく方が、自分にとっては自然にできるように感じています。私の感覚では、解決志向アプローチは認知行動療法と共通した部分を持ちながらも、より柔軟で、軽やかさのある方法のような気がしています。

いや、柔軟であるかどうかは、アプローチの種類ではなく、カウンセラーによるのかもしれませんね。柔軟な認知行動療法家は、きっとたくさんいると思います。認知行動療法ではなく他のアプローチを推したくなるのは、「売れている」認知行動療法に対して私の中に少しやっかみがあるのかもしれません。

認知行動療法やブリーフセラピーは、どちらかというと「先に進めようとする」アプローチなのだと思います。私が大事にしたいと思っているのは、「ちゃんととどまって、今の自分に(穏やかに)向きあう(それによって自ずと先に進んでいく)」やり方です。そういうやり方は、あんまり流行らないのかもしれないけれど(…やっぱり、やっかんでいるかな)。