投稿者「kabazushi」のアーカイブ

ご挨拶おくれました―オフィスを閉室しました

みなさま、あけましておめでとうございます。

すでにトップページでお伝えしていますが、昨年9月に、井の頭のオフィスを閉じました。とても残念ですが、コロナウイルスの感染拡大の影響もあり、部屋を維持するのが難しくなってしまいました。

いずれどこかでオフィスを再開するかどうかはまだ未定ですので、基本的には「再開しない」という前提で考えていただいた方がいいだろうと思っています。そのため、再開したらその旨ご連絡するというようなことは一切しないことにいたしました。

この状況下、みなさんそれぞれにそれぞれの生活があるかと思いますが、なんとか乗り切れればと願っています。

「臨床心理学」に論考が掲載されました

7月に発行された金剛出版の「臨床心理学」118号に、拙論『パーソンセンタード・アプローチと「問う力・聴く力」』が掲載されました。書店にも(心理学コーナーがあるような大きな書店であれば)置いてある雑誌ですので、よろしければご覧ください(実は、今年の1月に出た号にもひそかに投稿論文が載っていました。表紙には載っていないので本当にひっそりとですが)。

日常が変わるということ

コロナウイルスの影響の中で、多くの人の日常生活は、これまでと大きく変化しているものと思います。新聞などを見ていると、コロナ後の世界はコロナ前とは別のものになるのだとか、そういった言葉が目に入ってくることがあります。こういうことがあると、この先自分の生きている世界がどうなっていくのか見通しが立たないことに、不安を感じます。もちろん人間には先のことなどわからないに決まっているのですが、日常生活を送っていると、この先も同じようにこの生活が続いていくという感覚を、いつの間にかなんとなく持ってしまうところがありますね。それは退屈なようでもありますが、きっと安心を与えてくれている感覚でもあるのでしょう。

考えてみると、9年前の2011年には東日本大震災があって、やはり日本に住む私たちの日常は大きく揺り動かされました。原発のこともあって、やはり震災後は震災前とは私たちが日常を生きる世界は変化してしまったように思います。2001年にはアメリカの同時多発テロ事件があり、テレビで貿易センタービルに飛行機が衝突する映像を見て、世界はどうなってしまうんだろうと思ったものでした。1995年には阪神・淡路大震災が、1990年代の初めにはバブルの崩壊がありました。もちろんそれ以外にも、熊本や北海道や新潟の地震、各地の水害と、日常が揺るがされるような事件は定期的に起こっています。

今の生活がずっと変わらずに続いていくということは、実際にはありえません。そもそも人は歳を取りますし、親が歳を取ったり、子どもが大きくなったりというふうに、環境も少しずつ確実に変わっていきます。日常というのは、仮の安定状態をしばらく保ちながら、ゆっくりと、あるいは時々なにかのきっかけで急激にシフトして、また別の形の安定状態に入っていくものなのかもしれません。それはその時には、喪失感とか、あるいはこれまでの世界が終わってしまうような感覚を抱かせるものかもしれません。でも、また「別の」「変わらない日常」が、やがてやってきます。

変化は不安を生みますが、今の生活の中で、ひとつひとつの問題に対処し、ひとつひとつの時間を丁寧に過ごしていくことが大事なのかな、と私自身は思っています。それをしていれば、私たちの生命は新しい日常をちゃんと作り上げて、その中にちゃんと根を下ろしていくように思うのです。

面接を原則停止しています

みなさま、大変な状況が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。

久羽心理カウンセリングオフィスでは、コロナウイルスの感染拡大の防止のため、現在、面接を原則停止しています。感染症というのは、直接に顔をあわせて思いを共有するという機会を制限し、一歩ずつ前進をしていくことも難しい状況を作り出すという点で、悩ましいものだなあと感じています。

ブログはだいぶ長いこと更新していませんでしたので、この機会に少し何か書けたらとは思っています。

あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

この年末年始に、書かなければと思っていた文章をせっせと書いています。これも仕事の一部と言えば仕事の一部で、年末年始にまで家で仕事をしているのかと思うとなんだかブラックな働き方をしているような感じがしてきますが、何かを書く作業は実はわりと好きでやっているところがあります。

文章を書く作業を年末年始にまとめてやらないといけないほど忙しいのかと言えば、そんなこともないような気がするのですが、私は少しまとまった時間ができないとなかなか書く作業に取りかかれないところがあります。何かを考えて文章にするという作業には、細切れの時間で細切れにやるというのではやれないものが含まれているからかなと思います。いろんな雑務をいったんちゃんと脇にどけて、少しゆったりと何か一つのことに取り組めるようなスペースが日常の中にできて、それでようやく、何かをちゃんと考えたり、自分としての表現を練り始めたりすることができるように感じています。やっつけで書く文章はあまり面白くはありませんしね。

これは、このブログをなかなか更新できない言い訳でもあります。ちょっとしたスキマ時間に思ったことをちょっと書けばいいのでしょうけど、なかなかそれでは、自分が本当に感じていること、本当に思ったことを言葉にはできないな、という気がして…でも今回の文章はわりとスキマ時間に書いているかもしれません。しばらく更新していませんでしたからね。ご容赦ください。

何はともあれ、この一年が、皆さんにとっても私自身にとっても、いい一年になりますように ― 自分らしくいられる一年、やっつけで何かを進めるだけでなく大事な何かのためにしっかり「今」にとどまれる一年となりますように。

子供は預かりもの?

親にとって子供とはどんな存在か、ということを考えることがあります。子供と一緒にいる時間が幸せ、と感じるとしても、子供は親のためにいるわけではありません。子供に対して親は責任を負っています。でも親が「子供にとってこれがいいだろう」という自分の考えだけで物事を進めて、子供の意見を考慮しないとしたら、まずいのだろうと思います。一方で、子供の意見に従っているばかりなのは、やっぱりあまりよくないような気がします。親は子供の奴隷ではないし、子供は親の所有物ではありません。でも、それぞれ独自の存在だ、親の人生と子の人生は別物だと単純に割り切るにしては、特に小さな子供にとって、親の影響はあまりに大きいようにも思います。

個人的に、こんな考え方はどうだろうか、と思っている考え方があります。親は、子供の人生を一時的に預かっている、という考え方です。苗木を預かって育てるような感じです。預かっているあいだにも子供は世の中の刺激を受けて育っていきますから、箱にしまっておくわけにはいきません。それに、本来の持ち主の意向も想像して育てる必要があります(預かっている植木を、勝手に自分好みに剪定するわけにはいきませんよね。手入れは必要でしょうが)。預かっているのだから、自分のものにしてしまうわけにはいきませんしね。そして、預かっているのだから、やがてはちゃんと返さなければなりません。誰にかというと、大人になったその子にです。18歳だか20歳だか(あるいは、親は生涯にわたってその子の人生を預からなければならない、そんな宿命を持って生まれてくる子もいますが、その場合には親か子のどちらかが亡くなる時ということになるでしょうか)、とにかく返すべき時に、親はその子の人生のようなものを、その子に、はい、と返すわけです。その時その子は、私たちにこんなふうに訊くかもしれません。ちゃんと大事に預かってくれた? 預かっている間、ちゃんと大事に育てておいてくれた? と。私たちはきっとこんなふうに答えるのかな、と思います。わからない、預かっている間にいろいろあったし、思いもよらない方向に伸びるものだから、どうするのが正解か迷ったこともたくさんあった、でもまあ最善は尽くしたよ、と。

歩くのが好きです

歩くのがわりと好きです。歩くのは気持ちがいいし、そして個人的には、歩くことには心身のバランスを整える作用があるのではないか、と(あくまで個人的に)思っています。

ただし私の場合、気持ちよく歩けるためにはいくつか条件があります。一つは、荷物があんまり重くなく、そして左右のバランスが取れていて手が空いていること(やっぱりリュックがいいですね)。一つは、あまり人が多かったり道が狭かったりせず、自分の身体が自然にゆったりとした横幅を保てること(肩すぼみでないリラックスした姿勢が取れるように)。そして、急ぐ必要がないこと、です。

そして、自分の身体が欲する、自分の身体にとって自然なペースで歩きます。私の場合はですが、この自然なペースは、多くの場合、意外とゆっくりです。普段はきっと、できるだけ早く目的地にたどり着こうとして、けっこうせわしない気持ちで歩いているのでしょう。普段より相当ゆっくり歩いてみてはじめて、自分の身体が気持ちいいと感じられるようなペースが見つかることが多いのです。

もう一つ大事だと思うのは、目的地までの距離を意識せず、一歩一歩を大事にしながら歩くことです。急いでいる時は、目的地に早く着くことばかり考えて、前へ前へと歩みを進めようとしてしまいますが、そういう時は一歩一歩の歩みは、早く済ませてしまった方がいいもの、やりたくないのにやらなければならないものになってしまいます。身体を急かして追い立てると、歩くことは身体に無理なバランスを強いることになりかねません。でも身体のペースを大事にしながら、前へ前へと急ぐのではなく、一歩一歩を大事に歩くことができると、歩くことがちょっと楽しくなってきます。そしてそんなふうに自分のペースを楽しめている時には、自分が少しずつ、自分本来のバランスを取り戻していっているような感じがするのです。

フォーカシングと、話を「聴く」こと

私は何を専門にしているのかと尋ねられたら「フォーカシングです」と答えているので、フォーカシングという「特殊な技法」を使った特殊なカウンセリングをするのだと思われることがあります。しかしフォーカシングというのは元々、カウンセリングがうまくいく時にはどんなことが起こっているのだろうかという研究から生まれてきたもので、それ自体としてはとても自然なプロセスです。私がおこなっているカウンセリングも、やり方としてはとりたてて特殊なものではありません(ちょっとかわった自分自身への注意の向け方を提案することはありますが)。私はフォーカシングが、カウンセリングを「普通」だけれども「良質」なものにしてくれるものだと思っています。

カウンセリングは、話を「聴く」だけのもの、と思われることがあります。しかしフォーカシングの理論は、「聴く」べきもの、「耳を傾ける」べきものは、語られた話の内容だけではないことを教えてくれます。フォーカシングは、語られた言葉のもとのところにある何か、まだ言葉になっていない体験や言葉にしがたい気持ちに、目を向け、耳を傾けることを大事にするのです。

言葉にすることはとても意味のあることですが、時には「話す」ことが、私たち自身の気持ちをおいてきぼりにすることがあります。でも気持ちは多くの場合、言葉になる少し前のところで、ちゃんと耳を傾けてもらうことを待っています。誰かに耳を傾けてもらうことを、そして、あなた自身に耳を傾けてもらうことを、です。「話すのは苦手」「自分の気持ちをうまく言葉にできない」と思われる人もいるかと思いますが、それはカウンセリングでは悪いことではありません。そもそも、自分の気持ち、自分が感じていることというのは、それほど簡単には言葉にできないものかもしれないのです。まだ言葉にならないその気持ちに、一緒にゆっくりと耳を傾けていくことを、当オフィスでは大事にしています。

沈黙を聴く(ちょっとした瞑想のすすめ)

京都の嵐山に行ってきました。龍安寺と竹林の道は人がいっぱいで(外国の方にとても人気のようです。修学旅行生も多かったです)とても賑やかでした。その後に、常寂光寺へ。ここは人が少なくて(多分紅葉の季節の方が人気なのです)、でもとても素敵なところで、かなりゆったりと時間を過ごしました。

龍安寺でも常寂光寺でもそうですが、私はかなりの間、一人でただ座っていたので、ちょっと変な人に思われたかもしれません。でも、せっかく「ここ、好きだな」と思える場所に身を置くことができるのだから、ただ「観光」して終わるのではなく、ちゃんとそこの空気を味わいたいと、最近は思っています。それで、ちょっとした瞑想をするのです。個人的にはこの「ちょっとした瞑想」はとてもいいと思っているので、他の人がいいと思うかどうかはわからないのですが、紹介することにします。

まず、居心地よく座れる気持ちのいい場所を見つけて、座ります(立っていてもいいし、少し歩きながらでもいいです)。ちょっと深呼吸をします。古いお寺にあがっているような時には私は、自分がその場所に抱えられている、受け入れられているという感覚を感じてみたりもします。それから、聞こえてくる音を意識します。自分を取り囲む音を、近くの音にも遠くからの音にも、大きな音にも微かな音にも、同じように自分をひらきます。これは何の音だとか、気持ちのいい音だとか騒音だとか、自然の音だとか電子音だとか頭でジャッジするのではなく、ただそのまま聞いて、音の流れの中に身を置くようにします。

それから、そういった音の背景にある沈黙に耳を傾けます。都会だと背景にある沈黙を発見するのは少し難しいのですが、お寺とか高原とか森とか、そういうところだとちゃんと、音の背景に静けさが広がっているのを聴くことができると思います。そしてこの沈黙というのは、その場所の広がり、空間の広がりに他なりません。ですから私たちはそこで、言うなれば、空間そのものに耳を傾けているということになります。さらに、自分の周囲の狭い空間だけでなく、少し意識を広げて、お寺の境内の全体とか、森のずっと奥の方までとか、その広い空間、大きな沈黙に耳を傾けます。その沈黙の中に「私」がいる、ということに注意を向けてみてもいいかもしれません。その沈黙の中で静かに動いている「私」の呼吸、を意識してみます。好きなだけ、そうして時間を過ごします。

以上です。だからどう、ということはないのですけど、私はそんなふうにしてその場にいるのがけっこう好きなのです。ひょっとしたら、カウンセリングにも同じような瞬間があるかもしれない、とも思います。カウンセリングでは多くの場合、私たちは自分のまわりの空間というよりも、自分の内側の空間、自分の内側のいろんな雑音の背景にある静けさに耳を傾ける、ということになるのでしょうけれど。

時間の流れと「今ここ」

前の投稿から、1ヶ月以上がたってしまいました。あっという間に8月が終わり、そして9月に入ってもう一週間…時間があまりにはやく経ってしまうので、本当に驚いてしまいます。ついこの間、今年になったように思うのですけれど。

歳を取るほど時間が経つのをはやく感じる、というのは心理学では時々話題になる現象ですね。なぜ歳を取るほど時間が経つのがはやくなるのかの説明も、いくつか聞いた気がします(たとえば歳を取ると、新鮮で目新しいものがなくなるから、とか…)。それが本当なのかどうかはよくわかりませんが。

時間がはやく経つということについて、私はこんなふうに考えることがあります。人が、時間がこんなにはやく経ってしまった、と思う時、その人は別に、目の前を通り過ぎる時間を観察して、ああ、はやく通り過ぎているなあ、と思うわけではありません。「時間がこんなにはやく経ってしまった」と思う時、私たちは過去のある時点を思い返して、その時と今とのへだたりを測っているのです。つまり、時間がこんなにはやく経ってしまったなあ、と思っている時、私は「今ここ」での時間を生きていないのです。

マインドフルネスの考え方を学んだり、禅に興味を持っていたりすると、あの時がこうだったとかこれから先がどうだとか言う前に、今この瞬間をしっかりと生きられたらいいのになあ、と思います。今年の1月がどれほど「つい最近」に思われようとも、9月のこの1日を、大事に生きる。40代前半がどれほどあっという間に過ぎ去ってしまったように思われても、45歳の今日を今日として生きる。そう思い直して、しっかりと「今」に立って感じてみると、今この瞬間の時間は、ちゃんと、ゆったりした流れで流れているようです。