傾聴と、内なる子どもに寄り添うこと

仕事で、大学院の学生さんを対象に傾聴のワークをしています。傾聴とは相手の話に耳を傾けて聴くことをいい、これがカウンセリングの基本であると同時に中核でもあります。

傾聴を教えるということをしていて、いろいろなことを考えます。相手の話に耳を傾けるというのは普段私たちが普通にしていることですので、特別に構えずリラックスして臨めばいいと思うのですが、一方で本当にちゃんと耳を傾けるということができるためにはやはり意識的に注意するべき点を心に留めてトレーニングすることも必要で、でもそうすると緊張してしまって不自然になってしまって…というジレンマを、院生さんを教えていると感じるのです。自分はクライアントさんの話に耳を傾ける時、どんなふうにしているのだろう、どんなことを大事にしているのだろう…ということを、改めて振り返ったりしています。

先日も、相手に質問をする時にどのようにするか、ということが話題になりました。クライアントさんの現状を的確に把握するためには、クライアントさんがまだ語っていないことをこちらが訊く必要があります。でも、クライアントさんが「いろいろ訊かれた」と感じるような面接はあまりいい面接とは言えません。クライアントさんが「いろいろ聴いてもらえた」と感じられる(そしてセラピストが「いろいろ聞かせてもらった」と感じられる)面接を目指したいと思うのです。どうしたらそうなるのだろう、どうしたらその雰囲気というか、そういう場として面接の対話を整えていけるのだろう、それをどうやったら院生さんに伝えられるだろうということを考えています。

ひとつ、仮にですが考えているのは、「その人の中の子ども」に寄り添うというイメージを持つのはどうだろう、ということです。たとえば小学3年生ぐらいの子がぽつんと座っている時に、私たちはどんなふうに近づいて、どんなふうに横に座って、どんなふうに声をかけるだろう…もちろん、相手を子ども扱いするということではありません。相手が子どもみたいなものだからと見くびってそうするのではなく、誰でも(もちろん自分も)子どものように繊細で、いろいろなことを感じて傷ついたり無邪気に喜んだりしている部分を内に持っていて、そしてそれはけっこう大事な場所だと思うのですーその場所はひょっとしたら奥の方に隠れていて、なかなか見えないかもしれませんが。ひとりの大人としてのその人と真摯に向きあいつつ、同時に、そこには繊細な子どもの部分もきっとあると思って、その部分にそっと寄り添ってもいる。そんな関わりとして傾聴の場をイメージしてみるのはどうかな、と、最近考えてみています。