こころのこと」カテゴリーアーカイブ

子供は預かりもの?

親にとって子供とはどんな存在か、ということを考えることがあります。子供と一緒にいる時間が幸せ、と感じるとしても、子供は親のためにいるわけではありません。子供に対して親は責任を負っています。でも親が「子供にとってこれがいいだろう」という自分の考えだけで物事を進めて、子供の意見を考慮しないとしたら、まずいのだろうと思います。一方で、子供の意見に従っているばかりなのは、やっぱりあまりよくないような気がします。親は子供の奴隷ではないし、子供は親の所有物ではありません。でも、それぞれ独自の存在だ、親の人生と子の人生は別物だと単純に割り切るにしては、特に小さな子供にとって、親の影響はあまりに大きいようにも思います。

個人的に、こんな考え方はどうだろうか、と思っている考え方があります。親は、子供の人生を一時的に預かっている、という考え方です。苗木を預かって育てるような感じです。預かっているあいだにも子供は世の中の刺激を受けて育っていきますから、箱にしまっておくわけにはいきません。それに、本来の持ち主の意向も想像して育てる必要があります(預かっている植木を、勝手に自分好みに剪定するわけにはいきませんよね。手入れは必要でしょうが)。預かっているのだから、自分のものにしてしまうわけにはいきませんしね。そして、預かっているのだから、やがてはちゃんと返さなければなりません。誰にかというと、大人になったその子にです。18歳だか20歳だか(あるいは、親は生涯にわたってその子の人生を預からなければならない、そんな宿命を持って生まれてくる子もいますが、その場合には親か子のどちらかが亡くなる時ということになるでしょうか)、とにかく返すべき時に、親はその子の人生のようなものを、その子に、はい、と返すわけです。その時その子は、私たちにこんなふうに訊くかもしれません。ちゃんと大事に預かってくれた? 預かっている間、ちゃんと大事に育てておいてくれた? と。私たちはきっとこんなふうに答えるのかな、と思います。わからない、預かっている間にいろいろあったし、思いもよらない方向に伸びるものだから、どうするのが正解か迷ったこともたくさんあった、でもまあ最善は尽くしたよ、と。

フォーカシングと、話を「聴く」こと

私は何を専門にしているのかと尋ねられたら「フォーカシングです」と答えているので、フォーカシングという「特殊な技法」を使った特殊なカウンセリングをするのだと思われることがあります。しかしフォーカシングというのは元々、カウンセリングがうまくいく時にはどんなことが起こっているのだろうかという研究から生まれてきたもので、それ自体としてはとても自然なプロセスです。私がおこなっているカウンセリングも、やり方としてはとりたてて特殊なものではありません(ちょっとかわった自分自身への注意の向け方を提案することはありますが)。私はフォーカシングが、カウンセリングを「普通」だけれども「良質」なものにしてくれるものだと思っています。

カウンセリングは、話を「聴く」だけのもの、と思われることがあります。しかしフォーカシングの理論は、「聴く」べきもの、「耳を傾ける」べきものは、語られた話の内容だけではないことを教えてくれます。フォーカシングは、語られた言葉のもとのところにある何か、まだ言葉になっていない体験や言葉にしがたい気持ちに、目を向け、耳を傾けることを大事にするのです。

言葉にすることはとても意味のあることですが、時には「話す」ことが、私たち自身の気持ちをおいてきぼりにすることがあります。でも気持ちは多くの場合、言葉になる少し前のところで、ちゃんと耳を傾けてもらうことを待っています。誰かに耳を傾けてもらうことを、そして、あなた自身に耳を傾けてもらうことを、です。「話すのは苦手」「自分の気持ちをうまく言葉にできない」と思われる人もいるかと思いますが、それはカウンセリングでは悪いことではありません。そもそも、自分の気持ち、自分が感じていることというのは、それほど簡単には言葉にできないものかもしれないのです。まだ言葉にならないその気持ちに、一緒にゆっくりと耳を傾けていくことを、当オフィスでは大事にしています。

沈黙を聴く(ちょっとした瞑想のすすめ)

京都の嵐山に行ってきました。龍安寺と竹林の道は人がいっぱいで(外国の方にとても人気のようです。修学旅行生も多かったです)とても賑やかでした。その後に、常寂光寺へ。ここは人が少なくて(多分紅葉の季節の方が人気なのです)、でもとても素敵なところで、かなりゆったりと時間を過ごしました。

龍安寺でも常寂光寺でもそうですが、私はかなりの間、一人でただ座っていたので、ちょっと変な人に思われたかもしれません。でも、せっかく「ここ、好きだな」と思える場所に身を置くことができるのだから、ただ「観光」して終わるのではなく、ちゃんとそこの空気を味わいたいと、最近は思っています。それで、ちょっとした瞑想をするのです。個人的にはこの「ちょっとした瞑想」はとてもいいと思っているので、他の人がいいと思うかどうかはわからないのですが、紹介することにします。

まず、居心地よく座れる気持ちのいい場所を見つけて、座ります(立っていてもいいし、少し歩きながらでもいいです)。ちょっと深呼吸をします。古いお寺にあがっているような時には私は、自分がその場所に抱えられている、受け入れられているという感覚を感じてみたりもします。それから、聞こえてくる音を意識します。自分を取り囲む音を、近くの音にも遠くからの音にも、大きな音にも微かな音にも、同じように自分をひらきます。これは何の音だとか、気持ちのいい音だとか騒音だとか、自然の音だとか電子音だとか頭でジャッジするのではなく、ただそのまま聞いて、音の流れの中に身を置くようにします。

それから、そういった音の背景にある沈黙に耳を傾けます。都会だと背景にある沈黙を発見するのは少し難しいのですが、お寺とか高原とか森とか、そういうところだとちゃんと、音の背景に静けさが広がっているのを聴くことができると思います。そしてこの沈黙というのは、その場所の広がり、空間の広がりに他なりません。ですから私たちはそこで、言うなれば、空間そのものに耳を傾けているということになります。さらに、自分の周囲の狭い空間だけでなく、少し意識を広げて、お寺の境内の全体とか、森のずっと奥の方までとか、その広い空間、大きな沈黙に耳を傾けます。その沈黙の中に「私」がいる、ということに注意を向けてみてもいいかもしれません。その沈黙の中で静かに動いている「私」の呼吸、を意識してみます。好きなだけ、そうして時間を過ごします。

以上です。だからどう、ということはないのですけど、私はそんなふうにしてその場にいるのがけっこう好きなのです。ひょっとしたら、カウンセリングにも同じような瞬間があるかもしれない、とも思います。カウンセリングでは多くの場合、私たちは自分のまわりの空間というよりも、自分の内側の空間、自分の内側のいろんな雑音の背景にある静けさに耳を傾ける、ということになるのでしょうけれど。

時間の流れと「今ここ」

前の投稿から、1ヶ月以上がたってしまいました。あっという間に8月が終わり、そして9月に入ってもう一週間…時間があまりにはやく経ってしまうので、本当に驚いてしまいます。ついこの間、今年になったように思うのですけれど。

歳を取るほど時間が経つのをはやく感じる、というのは心理学では時々話題になる現象ですね。なぜ歳を取るほど時間が経つのがはやくなるのかの説明も、いくつか聞いた気がします(たとえば歳を取ると、新鮮で目新しいものがなくなるから、とか…)。それが本当なのかどうかはよくわかりませんが。

時間がはやく経つということについて、私はこんなふうに考えることがあります。人が、時間がこんなにはやく経ってしまった、と思う時、その人は別に、目の前を通り過ぎる時間を観察して、ああ、はやく通り過ぎているなあ、と思うわけではありません。「時間がこんなにはやく経ってしまった」と思う時、私たちは過去のある時点を思い返して、その時と今とのへだたりを測っているのです。つまり、時間がこんなにはやく経ってしまったなあ、と思っている時、私は「今ここ」での時間を生きていないのです。

マインドフルネスの考え方を学んだり、禅に興味を持っていたりすると、あの時がこうだったとかこれから先がどうだとか言う前に、今この瞬間をしっかりと生きられたらいいのになあ、と思います。今年の1月がどれほど「つい最近」に思われようとも、9月のこの1日を、大事に生きる。40代前半がどれほどあっという間に過ぎ去ってしまったように思われても、45歳の今日を今日として生きる。そう思い直して、しっかりと「今」に立って感じてみると、今この瞬間の時間は、ちゃんと、ゆったりした流れで流れているようです。

人に「ちょっとがっかり」してもらう

対人関係に苦労している人や、うつ状態からなかなか抜け出せない人の中には、とても真面目で、まわりからは「信頼できる人」と評価されている人も多いように思います。その信頼に答えてしっかりやろうとするあまり、適度に力を抜くことができず、しんどくなってしまうのですね。カウンセラーからは、「適当さ」を身につけること、がんばりすぎないでやれるペースを保つことを勧めることがありますが、このことが、苦手な人にとってはとても難しいように思います。

私がひとつのポイントだと思っているのは、まわりの人に「ちょっとがっかり」してもらうこと、です。もう少し正確に言えば、まわりの人に「ちょっとがっかり」されたとしても、それを受け入れようと決めることです。まわりの人にがっかりされることは、まわりの期待に真面目に応えようとしている人にとってはちょっと怖いことであろうかと思います。しかし、まわりの人があなたに期待しているものが、あなたがしんどくなるほどのものなのだとすれば、あなたが「そこまではできないよ、無理だよ」と言って、まわりの人に「ああ、そこまではできないのね」と思ってもらうことは必要なことです。

「がっかりされる」と言っても、まわりの人が本当にがっかりするわけではないことも多いように思います。むしろ、自分の内にある「相手にがっかりされたくない」気持ちと折り合いをつけるというところが大事なポイントです。まわりの期待に応えようとして一人相撲になってしまうということは少なくありません。実際には、少し余裕を持って物事に取り組むことができれば、その方が自分らしさを生き生きと発揮することにつながることも多いのではないかと思うのです。

「わかってしまわない」能力

「心理士です」とか「カウンセラーをしています」という話をすると、時々「じゃあ、こうして話していると、心を読まれちゃうかな?」と言われることがあります。もちろん相手の人は冗談で言っているのですが、でも案外、心理士のイメージというのはそういう感じなのかもしれません。実際には、全然そんなことはないのですが。テレビで、メンタリストというのでしょうか、相手が何を考えているかが手にとるようにわかる人を見たことがありますが、私は残念ながらそんな器用なことはできません。

「残念ながら」と書きましたが、実は、そんなに残念なわけでもないのです。私は、心理カウンセラーの専門性は相手の心がたちどころにわかるというところにはないように思っているからです。むしろ大事なのは、相手の心を「わかってしまわない」能力であり、「人の心はそうそうわかるものではない」ということがわかっていることであるような気がしています。

キーツという詩人が、「ネガティブ・ケイパビリティ」、つまり「負の能力」というものについて書いています。これは、不確実さに耐える能力のことを指します。私たちは早く結論や解決策を導き出すことを重視しすぎて、不確実さに耐える能力をすり減らしているところがあるのかもしれません。確かに、ビジネスのことであれば、早く効率的に物事を決めて先に進めるのが望ましいのかもしれません。しかし心に関わることがらでは、あるいは人生に関わるようなことがらでは、これはこうだと安易にわかってしまうのではなく、しばらくのあいだ気持ちを抱えていたり、じっくりと自分に向きあったり、さまざまな見方や物事の諸側面をあれこれ考えてみたりすることが大事になってきます。

私たちは、「わかった」と思ってしまうと、もうそれ以上そのことをわかろうとはしなくなってしまうところがあります。実際には、何かを本当に全部わかってしまうことなどないのかもしれません。人の心や自分自身の心にいたってはなおさらです。私たちは自分が相手のことを全部はわかっていないと承知しているからこそ、相手の言葉に表面的にではなく豊かに耳を傾けることができ、また自分自身のことを全部はわかっていないと知っているからこそ、自分自身に関心を持ってまなざしをむけることができるのではないか、と思います。

変化のパラドックス

カウンセラーの仕事で難しいなと思うことの一つに、こんなことがあります。相談に来られる方はだいたい、状況を変えたい、自分を変えたいと思って来られます。ですからカウンセラーである私は、相談に来られた方から「どうやったら変えられますか」と問われるわけですね。しかし、私が「じゃあ、変えましょう」と言ってその人を変える方向にあまり積極的に乗り出しはじめると、逆になかなか根本的なところは変わりがたくなってしまうことが多いように思います。もちろん、できるところを少しずつ、地道に変えていくことで、ある程度のところまで生活を変えていくことはできます。しかし自分の心そのものが変化する時は、逆に、今の自分自身を受け入れることができた時であることが多いように思います。ですから私は、「変わりたくて」相談に来られた人に、一方では今の自分を「受け入れる」ためのサポートをすることになります。

「受け入れる」というのは正確ではないかもしれません。「今の自分を受け入れる」というと、今の自分で満足せよ、というふうにも聞こえるからです。今の自分で満足しなさい、変わらなくてもそれでよしとしなさい、というのでは、カウンセリングに行く意味などなくなってしまいますよね。私が言いたいのは、なんと言いますか、「今の自分と仲直りする」「これまでの自分と仲直りする」というようなこと、変化はそれによって生じる部分が大きいということなのです。「こういうふうに変わりたい、でも変われない」という時に、この「変われない」というところにある気持ちや思いに(相談に来られた方とカウンセラーとが一緒に)優しく耳を傾けていくこと、その「変われない」自分と仲直りすることで、はじめてその「変われなかった」ものが先へと進んでいく余地が自分の中に生まれます。

カール・ロジャーズという人は、「奇妙な逆説だが、自分をありのままに受け入れた時に私は変化する」と述べています。変化や成長の種は、自分の外側の世界で出会われることもありますが、自分の内側の、意外なところで見出されることも多いように思います。

過去を振り返ることの意味

カウンセリングでどんな作業をするか、どんな話をするかは、来談される方のニーズや困りごとによってさまざまです。まずはご自分の「気持ち」について十分に話をすることが必要な方もいらっしゃいますし、ご自分の「考え方」や「物の見方」が妥当なのかどうかを話し合いたいという方もいらっしゃいますし、現状の中でどう「行動」すればいいかを考えたいという方もいらっしゃいます。カウンセリングでは、そういったニーズや問題意識をうかがって、それに応じて面接をおこなうことになります。ただ、カウンセラーによって得意な方法や重視する点が異なることも確かです。私はどちらかというと、気持ちや思いを重視するカウンセラーだろうと思います。私は、その人がどう考えるか(どう物事を見るか)、どう行動するかということの背景には、その人がどんな気持ちや思いを抱えて生きてきたのかということがあり、その気持ちや思いに自分自身が耳を傾けていくことが、自分自身の考え方や行動について深く考えていくことにもつながると思っているのです。

もちろん、あまり気持ちや思いというところまで話を掘り下げることはせず、目の前のことにどう対処できればいいかというところを整理して、それでカウンセリングを終えられる方もいらっしゃいます。それはそれで、もちろんいいのです。必ずしも深く自分の思いに向きあっていくのがいいこととは限りません。ただ、話をしていく中で、これまで自分自身でもどこかでわかっていながら目を向けてこなかったような気持ちがとても重要なものだということが明らかになっていくことも少なくありません。そのような流れになる場合には、話はおのずと、いったんは過去にさかのぼることが多いように思います。

自分自身のことを考えるという時、過去のことはとても大きな意味を持っています。カウンセラーは継続してお話をうかがう場合、一度、来談された方がこれまでの人生をどのようにやってこられたかをお訊きすることがよくあります。その歴史を知っていることが、今のその人のありようを理解する上で重要な背景となるからです。「今」を大事にするために、過去のことが重要な意味を持つわけですね。ただ、来談される方の中には、カウンセリングはただ「過去を振り返る」ものだと考えている方や、過去はもう変えられないのだから振り返っても仕方がない、だから過去のことを話しても意味がない、と思われている方もいらっしゃいます。実際には過去を振り返ることは、「今」の自分が変化することの一つの道筋として、重要なのです。しかし、過去を振り返ることが、なぜ今の自分が変化することにつながるのでしょうか。この問いに対する答えはいろいろありうるでしょうが、一つの答え方として、自分自身の中でなにか引っかかっているような過去の気持ちや思いは、今でも自分の中に「生きて」いて、命を持っているから、と答えることができるかと思います。

過去を振り返ることは、自分自身のこれまでの歩みにダメ出しをすることではありません。また、思い出したくない事柄に自分自身をもう一度さらすことが目的なのでもありません。言うなれば、今も自分の中に生きている「昔の自分」に声をかけ、耳を傾けて、ケアすること、そばに寄り添ってあげることが大事なのだろうと私は考えています。そうすることで、自分自身の中で止まっていたプロセスが、今、進むべき方向に進み始めるのではないかと思うのです。

「公認心理師技法ガイド」に分担執筆しました

「公認心理師技法ガイド」の「フォーカシング」の項を、日笠摩子先生と共同で執筆しました。ご興味のある方はぜひ。

求めること、求められること

人と人との関係というのは、本来、相互的なものなのだろうと思います。自分が相手に何かを(たとえばつながりを)求めることと、相手が自分に何かを求めることとが、呼応してといいますか、バランスをとって、人と人との関係は成り立っています。しかし、自分から求めるということと相手から求められるということのバランスをとるのが苦手な人もいます。たとえば、相手から求められることに応じることはできるけれど、自分から本当に何かを(たとえば自分を理解してもらうことを)求めることができなかったり。そうすると、まわりからは受け入れられているのに、本人は「自分」を見つけてもらえないという思いをどこかで抱えているということになるかもしれません。あるいは、相手に何らかのつながりを求めているのだけれど、相手の方から自分とつながりを求める気持ちを表明されてしまうと、その人との間で、自分自身のニーズを持った自然な「自分」でいられなくなってしまったり。あるいはまた、相手の求めるものを大事にしなければという気持ちにとらわれて、自分から相手に何かを求めることに罪悪感を抱いたり。

ニュースなどで、結婚に積極的でない人のことが時々話題になることがありますが、ひょっとしたら現代人は、求め、求められる、という相互的な関係が不得手になっているのかもしれません。このことは、地域社会のつながりが希薄になっている、ということとも関係がありそうです。本来相互的に助け合うような社会の仕組みに対して、自分に何かを要求してくるものと感じて距離を置き(あるいはそれが自分にトクかどうか、つまり何を与えてくれるのかという視点から判断し)、一方では、相手に何かを与えるという自分の役割がはっきりしているボランティアには抵抗がなかったりもします。

今、「日本心理臨床学会」という学会の会期中なのですが、その学会で、セラピスト(カウンセラー)の側の相手とつながろうとする欲求の話が出ていて、興味深く聞きました。カウンセリングは、来談者のための場であるという前提がはっきりしている場所で、このことはおそらく現代の社会の中で意味のあることなのだろうと思います。フロイトという人は、セラピストは中立的な立場でいるべきだ、つまり自分の気持ちを持ち込むことなくカウンセリングの場に臨むべきだというようなことを言いました。現代ではどちらかというと、自分の気持ちを持ち込まない客観的でクールなセラピスト像というのは幻想で、カウンセラーは好むか好まざるかに関わらず、一人の人間としてカウンセリングの場に身を置かざるをえない(そしてそのことには意義がある)、と考えられているのではないかと思います。ただ、「来談者の役に立ちたい」「なんとかしてあげたい」というようなカウンセラーの気持ち(欲求)があまりに大きくなることは、あまりいいことではない場合があります。それは来談者にとっては重荷になることがあるからです。求めることと求められることのバランスをとることが難しい人が、ここはカウンセラーが「こうしよう」「こうするべきだ」と思うことを実現するための場ではないよ、あなた自身のための場だよ、あなたの内にある思いを大事にするためにこの時間を使うのは正当なことなんだよ、ということをちゃんと納得できる関係性がそこにあることは、とても大切なことであるように思うのです。