カウンセリング(心理療法)はどう受けるといいのか

カウンセリングや心理療法は、特に決まった「受け方」があるわけではありません。むしろ、こういうふうにするもの、という先入観をもって、教科書通りにやろうとすると、自由に自分を表現することが難しくなってしまい、うまくいかなくなってしまう怖れがあります。

しかし、大学院生とセッションをしたりしていると、やはりカウンセリングの受け方がうまいなというか、自分に内省する仕方を知っている、という感じがすることがあります。心に向きあうということがどういうことか、ということをなんとなく知っていることで、カウンセリングのプロセスが比較的スムーズに進むということはあるのだろう、という気がします。

フォーカシングは、カウンセリングをどう受けるか、カウンセリングを受ける時にどんなふうにするといいのかということの、大きなヒントになるものだと思っています。私はカウンセリングの中でいつもフォーカシングのやり方をお伝えするわけではありませんが(それはそれで不自然なものを持ち込むことになることがありますから)、ただ「話をする」だけでなく、少し立ち止まって、自分自身に注意を向け、自分の言葉が自分の実感にしっくりくるかどうかを確認する、ということは大事にしたいと思っています。

井の頭公園駅のそばにオフィスを持ちます

今度、京王井の頭線 井の頭公園駅のそばに、カウンセリングのオフィスを持つことになりました。吉祥寺駅からも歩けます。それに伴い、近日中に、サイトのタイトルをかえて少しリニューアルすることにするかもしれません。

追い追い、オフィスの写真などもこのサイトに載せていきたいと思っています。今後ともよろしくお願いします。

「遊び」について

子どもの心理療法では、言葉のやりとりではなく、遊びを通じておこなうことが少なくありません。子どもは十分に言葉でやりとりができないから、仕方なく遊びを使って心理療法をする…と思われるかもしれませんが、ひょっとしたら逆に、大人は上手に遊べないから、仕方なく言葉でやりとりしている、というのが本当なのかもしれません。そのぐらい、遊ぶということには豊かな治癒力があります。遊びを通じた心理療法は遊戯療法と呼ばれ、これは「play therapy」の訳です(日本でもそのまま「プレイセラピー」と呼ばれることが多いです)。

「play」という単語は、遊ぶという意味の他に、演じるとか、演奏するといった意味を持っています。「play」はスポーツの場合にも使いますが、スポーツは必ずしも「遊び」ではなく、真剣勝負の雰囲気を持っていますね。「play therapy」の意義を考える時、あるいは「play」するということが人間にとって持つ意味を考えてみる時、この単語の意味の広がりは豊かな連想と奥行きをもたらしてくれるように思います。「play therapy」は決して単なる遊びではなく、いや、遊びとは決して「ただの遊び」ではなく、真剣に何かに没頭したり、自分以外の何かになってみたり、何かを表現することでそこに豊かさを生み出すような営みなのです。

ところで、日本語の「あそび」も「play」に負けず劣らず豊かな意味の陰影を帯びています。たとえば、車のハンドルの「あそび」という言い方をすることがあります。ハンドルを動かした時、動かしても車の動きに影響が出ないような余裕の部分、つまり実務的な意味をもたないゆとりのことを「あそび」と言うのですね。「あそび」はあまりたくさんあると困るのですが、まったくないと、それはそれでやりづらいものです。「あそび」が生活の中にあるというのは、実はとても大事なことなのではないかと思います。この「あそび」は、「仕事をしないで遊ぶ時間がどれだけあるか」という問題ではありません。一日中仕事で忙しいサラリーマンでも、仕事の中に「あそび」がある人もいますし、何もしないで遊んでばかりいるように見える人でも、生活の中に「あそび」が持てないでいる人もいます。おそらくは遊戯療法でも同じなのでしょう。遊んでいるようでいても「あそび」が持てない子どもにとって、「あそべる」ようになることはきっと大事な意味を持っているに違いありません。そして言葉でやりとりするセラピーでも、「play」や「あそび」が動き出すことはとても重要です。

精神分析家で小児科医でもあったウィニコットという人は、心理療法における遊び(play)の重要性を指摘した人です。そのうちにウィニコットについても何か書こうかなと思います。

フォーカシングと心理療法

フォーカシングは心理療法の研究から出てきたものですので、当然、心理療法に応用することで心理療法を豊かなものにできるはずです。しかし技法としてのフォーカシングをそのまま心理療法の中で提案すると、多くの場合、不自然に響きます。「ちょっと止まって、そのことをあなたの内側ではどう感じているか、感じてみる時間をとりませんか」と言われたら、多くのクライアントは戸惑ってしまうのではないかと思います。

大事なのは、まだ言葉になっていないけれど感じている何かに目を向けるということが、豊かなこと、大事なことであるということをセラピストが知っているということ。そして、その何かにクライアントとセラピストが一緒に目を向け、耳を傾けることだと思っています。二人の人が一緒に何かに注意を向けることを発達心理学の領域では「共同注意」と呼びます。共同注意は子どもが言葉を覚える上で大事な役割を果たすのですが、私は、人が自分の感じていることに注意を向けられるようになること(フォーカシングできるようになること)上でもこの共同注意の関係性が大事なのではないか、と考えています。

フォーカシングの心理療法への応用についてはいま論文を書いているのですが、大学の紀要に載せてもらうつもりなので、あまりいろいろな人には読んでもらえないかもしれません。でも、可能であればいずれウェブサイトに掲載しようと思っています。

「からだの内側」って感じづらいなあ、と思う

フォーカシングのワークショップなどでは、からだの内側に注意を向けて、フェルトセンス(からだの内側に感じられるとされる、漠然とした意味の感覚)を感じて…というふうにフォーカシングを説明しています。でも、からだの内側を感じることって難しいよなあ、というか…フォーカシングに慣れている人は、いわゆる「からだの内側」でただ感覚を感じるというのとはちょっと違うことをしているような。そんなもやもやがあります。本当は「フォーカシングとは何か」「どうやるのか」を伝えるのに、「からだの内側」にいきなり注意を向けるのではない、もっといいやり方があるのでは、と気になっているのです。

フォーカシングは気がかりな事柄の内容に触れずにその事柄についてセッションができるのが一つの利点なのですが、個人的には、話しながらフォーカシングするのが好きです。事柄を話しながら、自分の言ったことは本当かな、と立ち止まってみたり、自分の内側の感覚というよりも、その事柄が自分にとってどんなこととして感じられるのかに触れてみたり。そうですね…自分の内側に触れる前にまず、自分の気になっている事柄にちゃんと触れることが大事、という感じがしているのかな(書きながらちょっとフォーカシングしてます。そうそう、こういうのが好きなのですよね)。もちろん、一度振り返って「それで、自分のうちではどんな感じがしてるんだろう」と内側に注意を向けることが大事な場面はたくさんあるのですけれど。

心理学の概念をどう使うか

心理学には、人の心の動きを説明するためのいろいろな概念があります。しかし心理学の概念の多くは、「人の心というのはこういうものなんですよ」という「真実」を明らかにするものではなく、「人の心をこういう視点から見ると、少し理解がしやすいことがありますよ」という「視点」であることに注意が必要です。心理学の概念は、いわば人の心を理解するための道具です。人の心は、使う道具によってさまざまに異なる側面を見せます。体重計を使えば体重という側面がわかるし、身長計を使えば身長という側面がわかるのと同じです。

心理学は少し学ぶとわりと面白いので、自分の知っているお気に入りの概念を使って人の心の動きを説明してみせるということをしたくなりがちです。しかし、これはちょっと危険なことです。手ごろな概念で人のことをわかったつもりになってしまうと、私たちはそれ以上、その人のことをわかろうとはしなくなってしまうからです。「ああ、あの人は〜だね」「この人のやっていることは要するに〜だよ」と物知り顏で言うのは簡単なのですが、そうすると私たちはその人を、その概念の一例としてしか見られなくなってしまいます。つまり、概念がその人を本当の意味で理解することの妨げになってしまうのです。これは、体重を測っただけでその人の健康状態を全部わかったと考えるようなものです。しかし、ある概念の視点から人を見ることで、目の前にいる生きた「その人」のありようがいきいきと理解されることもあります。

たとえば、「ADHD」という概念があります。これは、生まれつきの特性として集中力のコントロールなどに難しさがあるという障害です。ADHDの人はちょっと人並み外れて忘れっぽかったり落ち着きがなかったり、片付けやスケジュール管理が不得意だったりするのですが、その他の点では普通なので、「あいつは身勝手な奴だ」「だらしがない、ちゃんとしようという気持ちがない」と思われてしまうことがあります。ADHDという概念は、人間には生まれつきそういうことがありうるのだ、その人の落ち着きのなさは本人の落ち度ではないのだということを教えてくれます。しかし、もし私たちがその人を見て「ああ、あいつはADHDだな」と決めつけてそれ以上その人のことをわかろうとするのをやめてしまうのであれば、ADHDという概念はあまり役に立っているとは言えず、下手をすれば偏見の温床となってしまうでしょう。それならこんな概念はない方がましです。でも、ADHDという概念を通してみることで、その人がどんな世界に生きていて、どんな思いをしながら、どんな苦労をしているのかがしのばれ、それも自分でもいかんともしがたくそうなのだということが理解できる道がひらけるのであれば、ADHDという概念はとても役に立っていると言えます。

コントロール下にないものへの寛容さ

最近ちょっと思ったことがあります。自分がテーブルの上に物を放置していてもあまり気にならないのに、人がテーブルの上に物を放置しているとイライラしたりすることがありますよね。自分が放置していてもそんなに放置している気にならないのは、どかそうと思えばいつでもどかせる、という意識があるからではないか、と思うのです。自分が放置しているものは自分のコントロール下にあり、どかそうと思えばすぐにでもどかせるので、自分の中ではほとんどすでにどかしたも同然に感じられ、人に注意されると「うるさいな、ちょっと置いてるだけじゃないか」という気持ちになります。でも、他人が放置しているもの(「あいつがどかすべきだ」と自分が感じているもの)は自分のコントロール下にないので、とても目障りです。もうひとつ他の例をあげると、たとえば洗面所で自分が水を出しっぱなしにしながらちょっとだけ別の作業に気を取られても、自分ではあまり気になりません。いつでも水を止められるのがわかっているからです。他人が水を出しっぱなしにしながら何かをしていると、なんで出しっぱなしなんだ、いったいいつ止めるんだ、ととても気になります。

この仮説(自分のコントロール下にあるものは気にならないがコントロール下にないものは気になる、このギャップがイライラやトラブルの原因になりうる)が正しいかどうかはわかりませんが、わからないなりにこの仮説から教訓を引き出すことができます。一つは、「いつでもやれる」からOK、という感覚は人には共有してもらえないし、同じことをされると自分もイライラするかもしれない、ということ。もう一つは、真の寛容さは自分のコントロール下にないものを許容できるか否かというところで試されるのかもしれない、ということです。

ちょっとだけ話がずれるかもしれませんが、信頼して人に任せるとか、人の自主性に任せるということには、自分が「こうすればいいのに」と思っているのと別の選択をその人がするのを許容する、ということが含まれている必要があるように思います。ただ、これがなかなか難しい。私はなかなか本当には人に寛容になれていない気がします。個人的には、人に寛容になるための第一歩は、自分はなかなか本当には寛容になれないんだよなあ、ということを認めることのような気がします。

心は簡単にはわからない、と知っているということ

心理を仕事にしていると言うと、時々、「じゃあ、心が読めちゃったりするの?」というようなことを言われることがあります。もちろん、そんなことはありません。個人的には、心理士の専門性、あるいはセラピストの専門性のひとつは、心というのはそう簡単にわかってしまえるものではない、ということを人よりもよく知っているというところにあるのではないかと思っています。

テレビで、人が今どう考えているかを当ててしまう人が出てきますね。見ていて、すごいなと思うし、正直あれぐらい相手の考えていることがわかったらかっこいいなあと思う部分もちょっとあるのですが、でも相手の考えが手に取るようにわかってしまう人は、セラピストにはあまり向いていないのではないかという気もします。人はわかったと思ったところでそれ以上のことに目を向けなくなってしまいがちですし、私たちは自分よりもあまりに早く自分のことをわかってしまう人の前では、自分自身のまだよくわかっていない部分にみずから主体的に向きあっていくということがしづらいように思うからです。セラピストは、いつでもまだわかっていないクライアントの心の部分に気づいていて、これはいったい何だろうね、と興味をもって一緒に目を向けるという感じがちょうどいいのかもしれません。

 

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たとえば、こんな感じです。

 楽天ブックス:臨床現場のフォーカシング

キング・クリムゾン「平和(Peace)」

「立ち止まるということの豊かさについて」で書いたことに関連して、ちょっと引用しておきたい歌の歌詞があります。キング・クリムゾンというロックバンドの「平和(Peace)」という曲の一節です(ピーター・シンフィールドという詩人が歌詞を書いています)。「平和」は3つに分かれているのですが、この歌詞は最後の「平和/終章(Peace – An End)」に出てきます。「me(私)」は平和そのものを指しているのだと思うのですが、人生において本当に大事ななにかを指しているととってみることもできるかな、と思います。

Searching for me, you look everywhere except beside you

Searching for you, you look everywhere but not inside you

(私を探して、あなたはあらゆるところに目を向ける、でもあなたの傍に目を向けはしない

あなた自身を探して、あなたはあらゆるところに目を向ける、でもあなたの内側に目を向けはしない)