精神分析

精神分析は、心理療法の世界のみならず哲学の世界でも有名な、ジグムント・フロイトによって作られました。精神分析は心理療法の源流であり、多くの心理療法の流派が精神分析の影響を受けながら(そして精神分析への批判を通じて)生まれてきました。

フロイトの理論は幅が広いのですが、簡単に概略をお話ししましょう。フロイトは、人間の意識の背後には無意識の領域が広がっており、そこには人が自分では認めたくないような気持ちが押し込められているのだと考えました。神経症の症状は、この押し込められた気持ちが意識のコントロールの及ばない形で顔を出すために生じるのです。そこでフロイトは、無意識に押し込められたものを意識することで神経症を治すという治療をおこないました。無意識の内容は、神経症の症状の他、夢を通じてあらわれたり、また患者(フロイトは医師でしたので、精神分析ではクライアントが患者と呼ばれることがよくあります)が分析家(セラピスト)に向ける感情の中にあらわれてきたりします。そういったものの中にある無意識的なものをセラピストが読み取ってクライアントに伝えること(解釈といいます)が、分析家の主な仕事と考えられました。

フロイトの理論では、無意識的な気持ちのエネルギーは性的なものから発しています。エディプス・コンプレックスという有名な精神分析用語がありますが、これは、男の子はお母さんとカップルになりたいと望み、お父さんに敵意を向けるのだけれど、逆にお父さんにやられてしまうのではないかと思って脅威を感じ、自分の性的な興味を無意識に押し込めるのだ、というような心のプロセスをあらわす用語です。このようなフロイトの理論は、当時(20世紀の初頭)の、父親の権威が今よりも強く、また性的な事柄への社会的な抑圧も今より強かった時代に考えられたものだということを考慮する必要がありますが、子どもの頃に周囲の人との関わりの中で抱いた空想が本人の気づかないところでその人のありように影響を与えるという視点は心理療法において重要なものです。

フロイトは後には、人間の心を超自我、自我、エス(イド)の三つに分けて考える図式を提示しています。超自我とは、親に育てられる中で人の中に育つ、「こうでなければならない」「これがあるべきあり方だ」という心。エスはドイツ語で「それ」ということで、無意識的な本能欲求の領域です。自我は、超自我やエス、そして現実世界の事柄を見ながらバランスをとっている領域で、私たちが普段「私」と呼んでいるものの多くは自我に当たります。このようないくつもの心の領域が葛藤しせめぎあっているのが人間の心というものであるとフロイトは考えました(このようにダイナミックな動きとして心を捉える見方を、力動的な見方と言います。

現代の精神分析は、フロイトの着想を基盤としながら、さまざまに発展してきました。無意識の内容よりも自我の働きに注目する「自我心理学」、エディプスコンプレックスのような自分・お母さん・お父さんの三角関係よりも自分とお母さんの二者関係を重視する「対象関係論」、心を部分に分けるよりもその人の全体(自己)に目を向けようとする「自己心理学」などです。私個人は、対象関係論の考え方が心理療法にとても役に立つように感じています。対象関係論では特にそうだと思うのですが、現代の精神分析は、クライアントの気づいていない無意識をセラピストがスパッと解釈して教えてあげるというのとはだいぶ異なるものになっています。むしろ、クライアントとセラピストの関係性の中にさまざまなことが起こってきて、それに目を向けちゃんと考えようとする中で何か新しい理解や成長のようなものが生じてくる、というのが現代の精神分析ではないかと思います。

本来の精神分析は、クライアントが寝椅子(カウチ)に横になり、セラピストはクライアントから直接見ることが難しいような位置に座るという、ちょっと独特のセッティングで、週に四回以上面接を持ちます。しかしこのような形でおこなうことは、時間的にも金銭的にもなかなか難しいことです。現代では、精神分析の理論を土台とした心理療法を椅子に座っての週一回程度の面接という形でおこなうことも多く、これは精神分析的精神療法(精神分析的心理療法)と呼ばれます。