「期待」と「信頼」

まだ学生の頃だったと思いますが、先輩に「期待と信頼は違う、期待はせずに信頼しろ」と言われたことがあります。以来、この言葉は私の中にずっと残っていて、大事な指針の一つとなっています。

何が期待で、何が信頼なのだろう、と考えることがあります。たとえば、「この人は悪いことはしないだろう」とか、「この人は約束を破ったりしないだろう」というのは、期待でしょうか、信頼でしょうか。普通は、「私はあなたを信頼している」というのは、その人が悪いことをしたり約束を破ったりしない人だと信じている、ということを意味しているようにも思います。しかし一方で、人は誰でも魔が差したり、道を踏み外したりしうるものだとも思います。もしそういうことが起こったら、私たちはもうその人を「信頼」できないのでしょうか。でも考えようによっては、それは「この人はきっとこういう人でいてくれるだろう」という「期待」に過ぎないのではないか、とも思うのです。

私は、こんなふうに考えてみることがあります。信頼するというのは、その人が実際に何をするか、ということとは少し違う次元の事柄ではないだろうか。つまり、その人の中のどこかに、自分の行いや人生を真摯に考えようとする気持ちがあるとか、なんとか「自分自身であろう」と奮闘しているその人がいるとか、そういうことを信じるということが、信頼ということではないだろうか。

その人のそういう部分は、今は隠れていて、表には見えないかもしれません。それにその人のその部分は、私の側で考える正しさとは異なるものを正しいと考えるかもしれません。その意味では私は、私が「正しい」と思うような振る舞いをその人がするだろうと「期待」はできません。しかし、その人なりに「自分」として考えて、自分なりに一生懸命に生きようとしている「その人」がきっとどこかにいるということは、信頼できたらいいなあと思うのです。

なんにしても、人を「信頼する」というのは難しいことだなあと思います。おそらく、私たちは気がつくといつの間にか人に期待はしているものですが、人を信頼するにはきっと、信頼しよう、という意志が必要になるのでしょう。