求めること、求められること

人と人との関係というのは、本来、相互的なものなのだろうと思います。自分が相手に何かを(たとえばつながりを)求めることと、相手が自分に何かを求めることとが、呼応してといいますか、バランスをとって、人と人との関係は成り立っています。しかし、自分から求めるということと相手から求められるということのバランスをとるのが苦手な人もいます。たとえば、相手から求められることに応じることはできるけれど、自分から本当に何かを(たとえば自分を理解してもらうことを)求めることができなかったり。そうすると、まわりからは受け入れられているのに、本人は「自分」を見つけてもらえないという思いをどこかで抱えているということになるかもしれません。あるいは、相手に何らかのつながりを求めているのだけれど、相手の方から自分とつながりを求める気持ちを表明されてしまうと、その人との間で、自分自身のニーズを持った自然な「自分」でいられなくなってしまったり。あるいはまた、相手の求めるものを大事にしなければという気持ちにとらわれて、自分から相手に何かを求めることに罪悪感を抱いたり。

ニュースなどで、結婚に積極的でない人のことが時々話題になることがありますが、ひょっとしたら現代人は、求め、求められる、という相互的な関係が不得手になっているのかもしれません。このことは、地域社会のつながりが希薄になっている、ということとも関係がありそうです。本来相互的に助け合うような社会の仕組みに対して、自分に何かを要求してくるものと感じて距離を置き(あるいはそれが自分にトクかどうか、つまり何を与えてくれるのかという視点から判断し)、一方では、相手に何かを与えるという自分の役割がはっきりしているボランティアには抵抗がなかったりもします。

今、「日本心理臨床学会」という学会の会期中なのですが、その学会で、セラピスト(カウンセラー)の側の相手とつながろうとする欲求の話が出ていて、興味深く聞きました。カウンセリングは、来談者のための場であるという前提がはっきりしている場所で、このことはおそらく現代の社会の中で意味のあることなのだろうと思います。フロイトという人は、セラピストは中立的な立場でいるべきだ、つまり自分の気持ちを持ち込むことなくカウンセリングの場に臨むべきだというようなことを言いました。現代ではどちらかというと、自分の気持ちを持ち込まない客観的でクールなセラピスト像というのは幻想で、カウンセラーは好むか好まざるかに関わらず、一人の人間としてカウンセリングの場に身を置かざるをえない(そしてそのことには意義がある)、と考えられているのではないかと思います。ただ、「来談者の役に立ちたい」「なんとかしてあげたい」というようなカウンセラーの気持ち(欲求)があまりに大きくなることは、あまりいいことではない場合があります。それは来談者にとっては重荷になることがあるからです。求めることと求められることのバランスをとることが難しい人が、ここはカウンセラーが「こうしよう」「こうするべきだ」と思うことを実現するための場ではないよ、あなた自身のための場だよ、あなたの内にある思いを大事にするためにこの時間を使うのは正当なことなんだよ、ということをちゃんと納得できる関係性がそこにあることは、とても大切なことであるように思うのです。