コントロール下にないものへの寛容さ

最近ちょっと思ったことがあります。自分がテーブルの上に物を放置していてもあまり気にならないのに、人がテーブルの上に物を放置しているとイライラしたりすることがありますよね。自分が放置していてもそんなに放置している気にならないのは、どかそうと思えばいつでもどかせる、という意識があるからではないか、と思うのです。自分が放置しているものは自分のコントロール下にあり、どかそうと思えばすぐにでもどかせるので、自分の中ではほとんどすでにどかしたも同然に感じられ、人に注意されると「うるさいな、ちょっと置いてるだけじゃないか」という気持ちになります。でも、他人が放置しているもの(「あいつがどかすべきだ」と自分が感じているもの)は自分のコントロール下にないので、とても目障りです。もうひとつ他の例をあげると、たとえば洗面所で自分が水を出しっぱなしにしながらちょっとだけ別の作業に気を取られても、自分ではあまり気になりません。いつでも水を止められるのがわかっているからです。他人が水を出しっぱなしにしながら何かをしていると、なんで出しっぱなしなんだ、いったいいつ止めるんだ、ととても気になります。

この仮説(自分のコントロール下にあるものは気にならないがコントロール下にないものは気になる、このギャップがイライラやトラブルの原因になりうる)が正しいかどうかはわかりませんが、わからないなりにこの仮説から教訓を引き出すことができます。一つは、「いつでもやれる」からOK、という感覚は人には共有してもらえないし、同じことをされると自分もイライラするかもしれない、ということ。もう一つは、真の寛容さは自分のコントロール下にないものを許容できるか否かというところで試されるのかもしれない、ということです。

ちょっとだけ話がずれるかもしれませんが、信頼して人に任せるとか、人の自主性に任せるということには、自分が「こうすればいいのに」と思っているのと別の選択をその人がするのを許容する、ということが含まれている必要があるように思います。ただ、これがなかなか難しい。私はなかなか本当には人に寛容になれていない気がします。個人的には、人に寛容になるための第一歩は、自分はなかなか本当には寛容になれないんだよなあ、ということを認めることのような気がします。