可能性を実現するということ

よく、子どもの可能性は無限大だ、ということを言います。小学生ぐらいの子どもにとって、自分の前に可能性がひろくひろく広がっているという感覚はとても大事なことのように思います。ただ、可能性を実現する、ということを考える時、可能性は実は無限大のままでは実現しません。ある可能性を実現するということは、他の可能性を捨てることに他ならないからです。

ある可能性を選びとって何ものかになるということは、無限大に思われた可能性を狭めて、自分自身が凡庸な一市民であることに甘んじて(あるいは、人によってはいわゆる「普通の」人生をあきらめて)、夢ではなく日常の中に生きていく道に入るということを意味します(もちろん秘めた夢を持ちながらかもしれませんが)。このことが、人によっては、いかに怖いこと、悲しいことであることか。有限な人生に足を踏み出せずにいる人に「現実を見ろ」という声がかけられることもありますが、そんな時に私たちはひょっとしたら、人生が有限なものであることに直面した時の自分の悲しさを忘れているのかもしれません。セラピストの役割はおそらくは、現実に直面させることというよりも、それは怖いことだよね、悲しいことだよねということに思いをはせつつそこにいることなのかなと思います。